Vom Weltkrieg zum Bürgerkrieg

ドイツ現代史や西洋史を学んだり教えたりしている今井宏昌のブログ。

弱さに入り込むナチズム:映画『ナチス第三の男』感想

 2019年1月25日(金)から日本で公開されている映画『ナチス第三の男』を鑑賞しましたので、その感想をここに記します。

www.youtube.com

 ちなみに本作公式HPのコメント欄では(恐縮なことに著名人の方々のコメントとならんで)拙コメントも掲載いただいておりますが、これはもともと1,200字程度の文章でした。

hhhh-movie.asmik-ace.co.jp

 配給会社の方から感想の依頼があった際、その冒頭だけを切り取った短文と文章全体の双方を提案し、結果として前者を採用いただく形になりました。そこで後者についても、せっかくなのでブログで公開しようと思った次第です。

 本作に関しては、私の先輩であるドイツ現代史研究者・増田好純氏がパンフレットで詳細な解説をされていますし、またその見どころについても下記の記事で述べられています。

www.47news.jp

 というわけで、私の感想は屋下に屋を架すものでしかないわけですが、一つの作品との出会いの記録として、ここに残しておきたいと思います。

 

弱さに入り込むナチズム:映画『ナチス第三の男』感想

 今井宏

 ナチスは冷酷で残虐な殺人鬼だったのか、人間性の欠片もない野獣だったのか、もしそうでなかったとすれば、なぜ彼らは未曾有の殺戮行為に手を染めたのか—。そうした根源的な問いを改めて突きつける映画である。

 本作で描かれるのは、アドルフ・ヒトラー、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ「ナチス第三の男」ラインハルト・ハイドリヒの「出世物語」であり、また彼の暗殺をめぐる群像劇である。

 優秀な海軍将校であったハイドリヒは、性的スキャンダルから軍を除隊され、怒りと絶望の淵で悲嘆に暮れる。そうした彼を支えたのは、婚約者でありナチ党員のリナだった。彼女を介してナチ党組織に接近したハイドリヒは、その頭脳と手腕をヒムラーに認められ、親衛隊(SS)の情報機関にポストを得た。

 妻となったリナと「幸せな家庭」を築きながらも、過去を振り払うかのように血塗られた職務に没頭する「仕事人間」の姿は、観る者に危険なカタルシスを与える。ハイドリヒの精力的な活動が党全体の躍進と1933年1月30日のヒトラー内閣成立に結びつくさまは、その頂点をなす。

 ただしナチ高官として警察権力を掌握していくにつれ、ハイドリヒは次第に家庭を顧みなくなり、夫婦仲も冷え切っていく。第二次世界大戦が始まり、ベーメン・メーレン保護領(1939年のチェコスロヴァキア解体後にナチスが設置)副総督への就任が決定した際にも、妻リナには何の相談もなかった。今や「ナチス第三の男」となったハイドリヒは、かつて自分を絶望の淵から救った妻をも邪険に扱うようになる。彼の暗殺は、まさにそうした中での出来事として描かれる。

 中盤のハイドリヒ襲撃シーンを機に、物語は一転してその実行者である反ナチ抵抗グループの群像劇へと様変わりする。観る者は戸惑いを禁じ得ない。ただしこの展開(あるいは転回)は、スクリーン越しに追体験してきた「出世物語」を相対化し、「ナチス第三の男」の姿を捉え直す重要な契機を観客に提供する。ハイドリヒが最期の瞬間、霞む視界の中でヒムラーに託した文書が何であるかに思考を巡らせるとき、果たして何人の観客がこの「感動シーン」を抵抗なく受け入れることができるだろうか。

 本作では「ナチス第一の男」ヒトラーは登場しないし、さらにはナチ党の「権力掌握」や第三帝国の領土拡大などを示すシーンはほとんど省略されている。かわりにクローズアップされるのは、ハイドリヒ周辺のナチ高官や高級軍人、殺戮を担う無数の兵士たち、そしてハイドリヒ暗殺を準備・実行するレジスタンスの姿だ。

 ナチスも、それに立ち向かう側も、あくまで「等身大」の人間として描かれる。ハイドリヒは最初から「鉄の心臓を持つ男」だったわけでなく、彼を暗殺したチェコスロヴァキア亡命軍の青年たちも最初から英雄だったわけではない。本作はそうした「等身大」の人びとにこだわることで、人間の弱さに入り込むナチズムと、それに立ち向かう人びとの姿を描き出している。

 

 

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

 

 

 

ヒトラーの絞首人ハイドリヒ

ヒトラーの絞首人ハイドリヒ